約 391,242 件
https://w.atwiki.jp/timeattack/pages/18.html
TAスレの歴史 このスレの歴史を掲載しています。 これは2010年12月13日までの歴史である。 2006年12月20日(水) 18時23分 このスレの前身となるスレが立てられる。 2006年12月20日(水) 22時43分 同日にタイムアタックしようぜ初代スレが立つ。ここからこのスレの物語ははじまった。 2006年12月23日 スレで初めてタイムアタックレースがDK氏とみけ氏によって行われる。タイトルは「ゼルダの伝説神々のトライフォース」今までにない盛り上がりで、これ以降頻繁にレースが行われるようになる。 2006年12月24日(日) 15時35分 スレで初めてRPGのタイムアタックがDK氏によって行われる。タイトルは「スーパーマリオRPG」である。クリスマスイブに8時間以上連続でマリオRPGを続けた伝説のひとつ。 2007年1月1日(月) 年も明け2007年元旦、この日を境に4日ほどスレが超過疎状態に。 その後は無事活気は戻る。 2007年1月13日(土) タイムアタックの線引きについての議論が巻き起こり、スレが大荒れ\(^o^)/ 別スレでの議論にまで発展したが、荒れただけで結論は出ず。そのままいつの間にか終結/(^o^)\ 2007年1月25日(木) スレが初めて落ちる\(^o^)/ 2007年1月26日(金) Wikiにイベント記録ページが設置される。 過去のレースイベントも神が全て保管記録してくれた。 2007年2月1日(木) この日を境にスレの空気が極端に悪くなる。 更にスレが急激に過疎っていった。 2007年2月20日(火) この日の前後よりややスレの空気が落ち着いてくる。 実況者も多少ながら増えてきつつ、とても良好である・・・が しかし、それも束の間の幸福であった。 2007年3月8日(日) スレとWikiが閉鎖する。 ここで事実上TAスレは終焉を迎えた。(´;ω;`) 2007年3月9日(日) TAスレWikiの華麗なる復活!僅か一日で復活 TAスレを愛する同志の手により短期間でWikiは復元された。 これを機にTAスレは避難所を本スレにひっそりと活動を再開 2007年3月15日(木) この日の深夜TA氏によってスレ復活後の初TA配信が行われる。 これを機に僅かながら、他の配信者の方々も復活! TAスレ復活の兆しが強くなった\(^o^)/ 2007年5月3日(金) この日を境にTAスレの第二の開幕 本スレも常に立つほどまで急成長(復活)した。 2007年8月1日(水) この日を境にまたTAスレに過疎が目立ってくる 本スレが落ちることも屡発生 2007年9月 9月に入ってからだんだんと実況が増え、本スレが落ちにくくなる 2007年9月15日(土) 第1回チーム対抗TA開催 レース中、スレの勢いが最高潮時は9000を超え、なん実Vトップに! 優勝はAチーム(ぷー・VipQuality・cocodenq) 詳細はこちら 2007年9月28日(金) 何故か異常に実況があった日 最大時同時に8人が実況(多元含む)、一晩で13人が実況はこのスレではかなりの異例。 2007年12月20日(木) タイムアタックスレが1周年を迎える。 たくさんの人が配信、実況をしスレは大いに盛り上がった。 2008年2月9日(土) 24時間耐久TA開催 スレ史上最も過酷と思われるイベントが行われた。 2008年2月16日(土) 第2回チーム対抗TA開催 レース中、スレの勢いが最高潮時はなんと11000を超える(このスレで1万は快挙) 優勝はCチーム(UI,R50000,580) 詳細はこちら 2008年8月02日(土) 第3回チーム対抗TA開催! 回を重ねる毎に盛り上がりを増すチーム対抗戦。今回は順位ポイント制。 スレの勢いは最大時18000超え、大いに盛り上がった。 優勝は前評判の悪さを覆したCチーム(が茶,m9(^Д^)プギャー,緑タイマー,篭手) 終了後、反省TA配信&未参加の配信者の配信で、後夜祭も賑やかでした^ω^ 2008年9月28日(日) ロックマン9、発売直後レース開催! TAスレで人気の高い、初代ロックマンシリーズの新作がwiiで発売!という事で 5人の参加者が集まり、このスレではとても珍しいwiiでのレースが開催されました。 2008年10月18日(土) 24時間耐久TA(第2回)開催 まさかの2度目の開催。 24時間で28人が参加し、大いに賑わった。完走は9人。 配信者、視聴者のみなさんお疲れ様でした。 2009年 2009年に入り、RPGの配信が活発に。 2009年2月15日(日) 何故か異常に配信が行われ、多元さんも現れてプチ祭になる。 1日で27人ものTAerが配信した。 2009年2月21日(土) 第4回チーム対抗TA開催! 今回も順位ポイント制。新ルールとして、各種目の規定時間が設けられた。 スレの勢いは最大時30000を超え、特にワギャンランド2のしりとり地獄は大いに盛り上がった。 最終的には3チームが同ポイントの接戦となり、総合タイムで決着する結果に。 総合優勝はDチーム (髭、R50000、DRP)。MVPは8pt獲得のR50000 2009年2月22日(日) 今日は2/22で忍者の日|/゚U゚|丿 多くの忍者ゲーがTAされました。100体のシャドーマン、お疲れ様( ^ω^) 2009年12月19日(土) 第5回チーム対抗タイムアタック開催! 参加者は過去最高の20人。 今回は紅白戦。1チーム10人で、6種目のレースが行われました。 優勝は赤組。特別ルールのポイント2倍制を両チーム共に逃さない、ハイレベルな対抗戦でした。 結果はこちら。 2010年12月4日(土) 第6回チーム対抗タイムアタック開催! 参加者は18人。3チーム、6種目のレースが行われました。マイナーゲー多し。 優勝はCチーム。レースでは事故が多発\(^o^)/安定プレイ大事です。 この後、種目に選ばれたマジカルポップンがブームに。 結果はこちら。
https://w.atwiki.jp/asparagusbisque/pages/37.html
◎「剣道」名称の変化 剣道は、われわれの先祖が戦場で刀剣をもって相手と戦った技術が、時代や社会の移り変わりとともに、しだいに戦いとしての性格を失い、スポーツ・修養・護身・芸能などの目的でおこなわれるようになったものであります。 剣道という名称は古い中国の文献にや、江戸時代の剣道書にも2,3出てきていますが、この名称が学校の体育教材として正式に取り上げられたのは、大正15年(1926年)改正の「学校体操教授要目」が最初になります。 奈良時代には撃剣(げきけん)、平安時代から鎌倉時代をへて室町時代中ごろまでは太刀打(たちうち)室町時代末期から江戸時代初期にかけては兵法(へいほう・ひょうほう)の名称が多く用いられてきました。江戸時代には兵法のほかに剣術(けんじゅつ)、撃剣(げきけん)、剣法(けんぽう)、刀法(とうほう)、剣技(けんぎ)、剣道(けんどう)などの名称が用いられていましたが、もっとも多用された名称は剣術で、明治・大正を通じては撃剣(げきけん)の名称が多く用いられていました。 これは榊原鍵吉(さかきばらけんきち)にはじまる「撃剣興行」の全国的盛行の影響であったと考えられています。 大正に入っては「剣道」の名称が多く用いられ、昭和に入っては「剣道」以外の名称はほとんど使われなくなりました。 ◎剣道の歴史 金属製の刀剣が大陸から朝鮮半島を経て、壱岐・対馬の島づたいに伝来したのは日本の古墳時代、崇神天皇(すいじんてんのう)のころと言われています。したがって剣術の出現は金属製刀剣の出現とともに始まったと言ってよいが、初期の刀剣は長大な平造りの直刀で、数も少なく武器としてよりも、所持者の地位、名誉、権力の象徴であったと思われます。 それが武器として用いられる様になるにつれ、反りのある彎刀(わんとう)に変わって行き、折れ曲がりせず軽くてよく切れる、いわゆる「日本刀」が出現し、刀法技術も進歩していきました。 直刀から彎刀への移行は明らかではありませんが、12世紀の中ごろから終わりにかけての、源平時代にはすでに彎刀一色でありました。 しかし、この時代は騎馬戦はなやかな時代であり、馬上での弓矢の戦いが中心で、刀法も相手と刀を交えて斬り結ぶというよりも、馬上から片手で振り回す技術が中心でした。 鎌倉時代から室町時代にかけては、蒙古来襲の影響もあって戦術にも変化があり、太刀打ちの技術が槍術とともに進んで行きました。武技としての兵法は室町末期の戦国時代に著しく進歩し、素朴な甲冑兵法から精錬された素肌兵法へと変わり、太刀数も多くなり技法も一段と高度化し体系化され、一流一派をなしてこれを指導する者があらわれ、日本独自の剣法が芽生えて、今日の剣道の基礎となっていきました。 参照:「剣道の歴史」より http //www.nava21.ne.jp/~susaty/kendo/rekishi.htm 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道 通販 / 竹刀 通販
https://w.atwiki.jp/peltaneimi/pages/17.html
歴史を学ぼうと小説から読んだことがあるんですけど、なんかわかりにくくて。 なので、難しい歴史書なんかは、漫画がいいよね、 漫画だと読みやすいし、わかりやすい。 内容がわかればいいんだから、無理して活字じゃなくてもいいかもしれないですから。 マンが読んでから、小説読むともっとわかりやすいし、楽でいいですよ。 今は、龍馬を読んでいます。
https://w.atwiki.jp/semavatarheroes/pages/1174.html
ウィーリント歴史書2 レア度 4 次のように記されている。 ウィーリントの剣は、ウィーリントの戦士たちが愛用する武器の一つだ。 他にもたくさんの武器が作られているが、製法が出回らないため、希少なものが多い。 (1~3を集めて合成することで、異なるアイテムに変化します) 入手先 合成 ウィーリント歴史書2を合成する 合成ランク1 ウィーリントの宝×8 ウィーリント歴史書2から合成する ---- ウィーリント歴史書2×1+ウィーリント歴史書1×1+ウィーリント歴史書3×1=ウィーリントの剛剣製法 情報お願いします 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/2362.html
ヘロドトス『歴史』巻七に、ペルシア戦争においてクセルクセスがギリシアへ遠征を開始して間もない時、 白昼にわかに暗黒と化したことがあり、クセる癖巣がこれをマゴスらに尋ねると、 「ペルシアでは未来の事は月が示すが、ギリシアでは太陽が示す。この現象は神がギリシア人に対して その町々の消滅を予示したものである」と答えたので、クセルクセスは喜んで軍を前進させたという。 同書訳者注釈に、この時期に該当しそうな日食はBC481年(W)4月の皆既日食(インド洋諸地域およびスサ)、 BC480年(W)10月の部分日食(コリントスおよびサルディス)、 BC478年(W)2月の金環食(サルディス)の三つに限られると云々。 アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』巻三に、アレクサンドロス大王がティグリス川を渡河した日の夜に 月食が起こり、大王は日月に供犠を捧げたという。 参考文献 『歴史(下)』ヘロドトス 『アレクサンドロス大王東征記(上)』アッリアノス 歴史 下 (岩波文庫 青 405-3) アレクサンドロス大王東征記 上 付インド誌 (岩波文庫 青 483-1)
https://w.atwiki.jp/telestea/pages/97.html
インターネットの歴史 インターネット インターネットの歴史 インターネットの歴史は1950年代のコンピュータの発展と共に始まった。その当初はメインフレームと端末との1対1通信であり、そこからコンピュータ同士の1対1接続に発展し、さらに初期のパケット通信の研究へと発展していった。ARPANET、イギリス国立物理学研究所のMark I、CYCLADES、メリット・ネットワーク(英語版)、Tymnet(英語版)、Telenet(英語版)といったパケット交換ネットワークが1960年代末から1970年代初めに開発され、様々な通信プロトコルを用いていた。中でもARPANETは、複数のネットワークを相互接続してネットワークのネットワークを構築するインターネットワーキングのためのプロトコルの開発へと乗り出した。 1982年、インターネット・プロトコル・スイート (TCP/IP) が標準化され、TCP/IPを採用したネットワーク群を世界規模で相互接続するインターネットという概念が提唱された。ARPANETへの接続は、1981年にアメリカ国立科学財団 (NSF) がCSNET (Computer Science Network) を開発したときに拡張され、さらに1986年にNSFNETが全米各地の研究教育機関から複数のスーパーコンピュータへの接続を提供した際にも拡張された。営利目的のインターネットサービスプロバイダ (ISP) が1980年代末から1990年代に出現しはじめた。ARPANETは1990年に役目を終える。1995年にNSFNETも役目を終えると、インターネットの商業化が完了し、インターネットの営利目的の利用についての制限がなくなった。 1990年代半ば以降、インターネットは文化や商業に大きな影響を与えている。電子メールによるほぼ即時の通信、インスタントメッセージ、VoIPによる「電話」、ビデオチャット、World Wide Web とそれによるインターネットコミュニティ、ブログ、ソーシャル・ネットワーキングなどがインターネットによって可能になった。研究教育コミュニティはさらに開発を進め、NSFのvBNS(英語版) (Very high-speed Backbone Network Service)、Internet2、ナショナル・ラムダレール(英語版)などの進化したネットワークを使っている。増大するデータ量が、1 Gbit/s、10 Gbit/s、あるいはそれ以上で動作する光ファイバー網の上でますます高速に転送される。増大するオンラインの情報・知識・商取引・娯楽などに駆り立てられ、インターネットは成長を続けている。 試算によれば、1993年時点での双方向電気通信でやり取りされた情報の総量のうち、インターネットを使ったものは1%にすぎなかった。2000年にはそれが51%に成長し、2007年には97%以上の情報がインターネット経由でやり取りされている[1]。 インターネットの歴史について、くわしくは、古瀬・廣瀬[1995]、村井[1995]、岩谷[1995]、浜野[1997]などを参照。 インターネット関連略年表1969 ARPAネット始まる 1979 USEネット始まる 1981 CSネット始まる 1982 TCP/IP技術の確立 1983 ARPAネットがTCP/IPを採用 CSネットとARPAネットが相互接続 1984 JUNET発足 1986 JUNETがUSEネットに接続 NSFネット始まる 1988 WIDEプロジェクト始まる 1989 インターネットと商用パソコン通信との間で初の電子メール交換 1990 ARPAネット廃止 1991 米国で商用インターネット接続機関発足 1992 WWW発表される 商用プロバイダIIJ社設立 1993 米国でNII(情報ハイウェー)構想発表 パソコン通信との相互乗り入れ始まる 1994 JUNET解散 1995 NSFネット終了 WINDOWS95発売
https://w.atwiki.jp/truedemand/pages/16.html
Alvisの歴史 1999年頃 TRUEDEMAND誕生 2003年頃 Alvis発足 2005年頃 活動休止 2009年7月12日 期間限定、活動再開 2010年3月31日 活動終了予定
https://w.atwiki.jp/unnno/pages/121.html
このサイトは下記の場所に移転しました。 http //www25.atwiki.jp/unno/(トップページ) http //www25.atwiki.jp/unno/121.html(ダイエットの歴史)
https://w.atwiki.jp/6662/pages/17.html
歴史年号戦国史 歴史年号戦国史 年号
https://w.atwiki.jp/arateam/pages/158.html
鉄研の隣の部。2006年10月に友好通商条約を締結。工具の貸し借りなども行っている。 鉄研とは歴史的にかなり深い付き合いがあるようで、顧問やOBの証言による情報を断片的ながら集めると、 鉄研との部室(現鉄研部室)共用(数十~10数年前?) 鉄研が高度な政治力を行使し遺研を放逐(10数年前?) 2000年保存の製法が流出したとして遺研に強行査察。両部の関係悪化(1990年代後半) 鉄研の度重なる中傷行為により国交断絶(2000年代前半) 時間が関係を修復、およびバトミントン部との関係悪化に伴い戦争に備え背後の安全を確保したいという鉄研の思惑が友好関係を築く(2006年~) 上記のように決していつも良好な関係というわけではなかったらしい。隣に敵を抱えている以上、遺研とは仲良くしておいた方が賢明かもしれない。 現在、2007年度の文化祭のお客様のご指摘により、「遺跡研究部」から名前を変えた。一時期、副部長の座を狙った、幽霊入部(幽霊部員になる前提で入部すること。最高学年が極端に少ないとよく起こる。化学部でも起こったらしい)が多発し、内部抗争が起こっていたらしい。部名変更後は「いせ研」「れっ研」などと相変わらず呼び名が混在している。 関連項目 2000年保存 バトミントン部